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2002年2月20日、長年夢見たソルトレイクシティーオリンピックの舞台に立っていた。前日の夜から降りだした雪は大会当日も勢いを増し降り続けた。(雪が降ったのは、大会期間中、後にも先にもこの日だけだった)悪天候にも関わらず競技は開催され結果は、8位だった。次の日、皮肉に思える雲ひとつない青空を見上げながら、心に誓った。
あれから4年が経ち、再びオリンピックの舞台に立つことができた。「4年」、と言葉で言うのは簡単だが37歳からの4年間は、衰えていく体力との戦いであった。悲しいかな、白髪も皺も増えた。確実に衰えていく体力を技術力を高めることで補い、なおかつ、その正確さを高めこれまでよりも総合力を上げるという想像もつかないことへの挑戦の日々であった。若いときには、がむしゃらに体を使って汗を流していたが、この4年は脳を使って合理的に汗を流してきた。特に、技術面での大きな改革は、スタート方法を両手押しから片手押しに変えたことである。まず、片手押しのメリットを理論的に解明し、それに合わせて関節、筋肉の柔軟性を高める等の肉体的神経的改造を行った。良くも悪くも長年染み付いた癖を乗り除くのには悲鳴をあげるトレーニングの連続であった。(正直、全てが改善されたとは言えない)
用具(ソリ)についても、今まで乗り慣れていた日本製をカナダ製に乗り換え、新たな操作技術を身に付けようと試行錯誤を繰り返した。しかし、最終的に日本製を選択することになった。また、競技環境もそれまでのスポンサーとの契約が切れたのをきっかけに、新たに5社のスポンサーと契約を結び協力を得てきた。これ以外にも、スポーツメーカー、サプリメント会社、鉄工所、ペイント屋さん、プリント屋さん、マッサージ、税理士、酒屋さん、ケーキ屋さん等、数え切れないほどたくさんの方々から協力を得てきた。
「理想と現実」何一つまともにできない自分に腹が立った。
若手の成長に焦りを感じ、将来への不安と恐怖に眠れない夜を何度も経験した。
2006年2月10日、トリノオリンピック開幕。
2月13日から公式練習が始まり、15日までの3日間行われた。調子は、まあまあ。オリンピック用に開発した日本製ランナーの感触も良好だった。しかし、カナダ製ランナーの加速がほんのわずか上回っていたため、本番はカナダ製を選択した。ソリもランナーも、国産の完成度が高まったことを確信した。
現地入りしてからも日本での疲れがなかなか取れなかったが、松本トレーナーの献身的なストレッチによって体調も徐々に回復し、最高の状態に仕上がった。
2006年2月17日、スケルトン男子競技日。
4年前と同じように前夜から降り始めた雪は、朝になっても止んでいなかった。「試練だな」とふと思う。少しだけ4年前と違っていたことは、気持ちに余裕があったことだ。
試合時間が近づくにつれ雪は小降りになっていった。私の滑走順は、19番。大雪なら勝ち目はないが、この程度の雪なら勝機はある。しかも、湿度が低く、氷に霜が付く心配もない。戦いの準備は整った。起床してからゆっくりと時間が流れた。迷い、気負い、不安、恐怖が全くなかった訳ではないがリラックスしていた。
15時00分 選手村出発。
15時35分 コース到着。戦いの前のひと休憩、ココアを飲む。
16時00分 ビジョントレーニング開始。
16時20分 アップ開始
16時50分 ストレッチ1
17時00分 スプリントチェック
17時15分 ストレッチ2
17時30分 レース開始(1本目)
18時00分 私の滑走開始(19番スタート)
いつものようにスタート台に立ち、いつものようにスタートの合図を確認し、いつものように指を前方に突き出しスタートをした。スタートタイムは、4秒92、走り始めてからの流れは良いが、力の方向が少しずれていた。1コーナーに入る前にソリが少し右に寄った。「壁にぶつかる」と思ったが、ギリギリのところで上手くそれを切り抜け1コーナーに入った。恐らく壁とソリとの間隔は1センチもなかっただろう。ラッキーだ。
1コーナーに入ったら2コーナーの入口に向かって直線的に滑り、2コーナーは操作をしないでソリの行くままに滑る。3コーナーは極力少ない操作で波を打たせないように滑る。3コーナーを出たら4コーナーまで約15メートル直線が続く。早く右に寄せないで4コーナーの入口に向かって徐々に寄せていく。4コーナーに入ったらすぐにソリが高く上がらないように左足を使って操作を入れる。このタイミングと操作の長さが最大のポイントになる。5コーナーは、4コーナーとの連動でど真ん中を狙う。4コーナー同様、ソリを高く上げないこと。しかし、4コーナーより慎重になる必要はない。6コーナーは右側から奥を狙って侵入する。コーナーに入ったら落とす戻すの操作をタイミング良く繰り返す。7コーナー、8コーナーも同様。9コーナー思っているよりカーブが長い、中間まで軽く押さえ、その後はフリーに流す、出口はタイミングが重要、10コーナーの入口右側をイメージする。
10コーナーは入りが良い、何も操作をしないでソリを走らせる。10コーナーから11コーナーまで約20メートルの直線が続く。11コーナー入口左側を狙う、早く左に寄せない。11コーナーは、出口で左側に出る。操作は限りなくしない。12コーナー、13コーナーは直線的に滑る。14コーナーの入口右側を狙う。11コーナー出口から14コーナー入口を直線的に滑る。蛇行すると14コーナー入口を右から入れない、注意が必要。14コーナー加速に乗せる部分である。強い操作をして減速させないこと、横滑りをさせないことを注意する。14コーナーの出口で膨らみすぎると転倒するので出口は左足を使って膨らまないように操作をする。勇気が問われる。15コーナーみるみる加速する。視野が狭くなり、フォームが崩れやすくなる。我慢して頭を低くし、肩をソリにつける。足を閉じる。勇気が問われる。最高速に達する。出口で膨らまないようにしっかり操作をする。16コーナー入口手前で右壁にぶつからないようにする。コーナーに入ったら直ちにソリが高く膨らまないように強く操作を入れる。ほとんどの選手が左足を使うが私は使わない。これぞ「越ライン」。(足を使わないとラインが大きく膨らみ、場合によってはソリが庇にぶつかり減速するか転倒するリスクを背負う。)技術と勇気を一番問われる。18コーナー転倒多発コーナーである。問題は、入口だけ、ど真ん中か左側から入れば問題なし。19コーナー無重力にならないように注意する。そして、ゴール。
タイムは58秒65 9位。スタート時の力の方向がずれていたのを除けば、イメージ通りの完璧な滑りができたといっても良い。1位(57秒80)、2位(57秒98)、3位(58秒35)。勝負は下駄を履くまで解らないというが、現実的に1位、2位とのタイム差は2本目で挽回できるものではなかった。金メダルへの挑戦は終わった。しかし、3位とのタイム差は十分挽回できるものであり、スタート時の反省だけを改善すれば間違いなく銅メダルを獲れる可能性があった。
18時30分 27選手全員の1本目の滑走終了。
2本目の滑走は、19時13分から始まる。わずかな時間の合間に、気持ちを切り替え、新たな集中力とエネルギーを充電する。体を冷やさないために携帯用カイロを張りまくり、消化に時間のかからない糖質系(エネルギー源)の捕食を取る。ソリの調整を行い、短時間でスタートの動きと滑りのイメージを確認する。
19時13分レース開始(2本目)。
2本目の滑走順は、1本目の滑走タイムの27位から始まり、1位の選手が最終滑走者となる。私の滑走順は、1本目と同じ19番。
19時40分私の滑走開始。
私の2人前のベン・サンドフォード選手(ニュージーランド)が58秒60の好タイムを出し、続いて1人前のマーティン・デューカス選手(ラトビア)も58秒60の好タイムを出した。着ていた防寒着を脱ぎ、村田監督からソリを渡される。スパイクについた雪をブラシで取ってもらい、合図が出るのを待った。いつもと同じリズムであった。歓声が飛び交っていたに違いないが何も聞こえなかった。
シグナルが赤から青に変わり、指を前方に突き出し、ソリを地面にセットする。左手でグリップを握り、左足をソリの後ろに置き、右足をスタート板に掛ける、右手を軽く振り上げると同時に体重を前方に移動しながらスタートを切った。1本目の反省を活かし前傾を少し強くし、とにかく思い切って走った。1本目に比べ感触が良いのを体感する。
スタートタイム4秒87。(未知の世界の加速を感じた。)1コーナー、2コーナー、3コーナーと順調に滑った。そして、4コーナー、悪夢は一瞬にして起こった。4コーナーの入りは問題がなかった。しかし、コーナー中間でのラインが10センチ高くずれた。その瞬間、「このまま行くと、4コーナー出口は左に出て、5コーナーは膨らみ、出口で左壁にぶつかる」と想像がついた。その想像が間違いであってくれと願いつつも全く問題なく想像は的中した。
絶対に、絶対に犯してはならないミス。
その後は、可能性を捨てず、期待を抱いて滑った。普段から奇跡など起こるはずがないと知りながらも、それを願って滑った。
ゴール。
電光掲示板を見る。59秒40。
奇跡は起こらなかった。
1本目9位、2本目14位、合計11位。
野澤コーチの辛い顔が目に入った。観客席を見ることも、そして、声援に手を振ることもできなかった。頭を抱えしゃがみ込んだ。
「演劇に例えるなら、いい演技というのは、主役、脇役、黒子、演出家、大道具、小道具・・・・、それぞれが目標、目的を理解し、その立場において、責任と義務を担いまっとうすることで成し得られることである。一人でも手を抜く者がいたとしたらいい演技にはならない」と今回のオリンピックチャレンジでは常にチームの一人ひとりにそう言い続けてきた。そして、皆がそれを理解し良い仕事をしてくれた。だが、最後の最後に私が自分のやるべき仕事の中で責任と義務をまっとうしなかった。
「・・・・・・・。」涙が出た。
2006年2月26日、トリノオリンピック閉幕。
レースが終わり、オリンピックが終わっても、あのとき犯してしまった一瞬のミス、そして、あの悔しさは忘れることができない。おそらく一生忘れることはないだろう。
しばらくは何も考えることができなかったが、最近思う事がある。
今回のオリンピックチャレンジの結果は11位に終わってしまったが、4年前に比べメダル獲得に現実味があった。そして、このチャレンジに関わっていただいた皆様一人ひとりの取り組みは、間違いなく本物であり、世界に通じるものであった。
全てに感謝するとともに、それを私は誇りに思う。
『ありがとう』
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